どちらの感情も秘めているのが人間だと思う。

普段と変わらない日常。その日常に対して「それは危ない」「なにかあったらどうするんだ」「やめたほうがいい」と警告すると、それを人は狂気という。

逆になにかことが起きたあと「なんで防げなかったんだ」「どうしてこうなったんだ」「誰に責任があるんだ」と問い詰めることも人は狂気という。

人間って勝手なもので、普段は「頑張れ」とか「どうしてそんなことするんだ」って言うくせに、いざ重大ななにかが起きた時には「なんで相談してくれなかったんだ」「なぜ早く言ってくれなかったんだ」と言う。

例えば、誰かの誘いを断ったとする。その後もし断った相手が事故にあって帰らぬ人になってしまった時「なんであの時断ったんだろう」と後悔をしてしまいます。

相談したいけど相談できない雰囲気にさせておきながら、もし自殺とか問題などが起きると「なんでもっと早く言ってくれなかったんだ」って言うのが人間。

でも、誰もそんなことは予想できない。予測も難しい。
「あの人の誘いを断ると、この後事故に遭い帰らぬ人になります」と確実な情報があるなら誰も断るはずがないし、相談にのらなかったことで自殺するってわかっていたら誰だって相談にのるだろう。それは人間の持つ優しさだし温かさなはず。

やっぱり人間は都合よくできた生き物なんだと思う。
こんな事故が起きた時、子供がいるとどうしても「もしうちの子が」って想像するのと同時に、「もし事故を起こしていたら」「もし園長だったら」「もし取材側だったら」と想像すると、やっぱりその立場のその時の感情で物事を進めるんだと思うのです。

当事者だったり自分の子が事故にあってたら、この文章は書けるはずがないと思うし。

みんながみんな必死。目の前のことに必死。
僕だって、あの人だって毎日を生きている。

こんな問題が起きると、「誰が悪い」という白黒ハッキリさせたがるけど、僕は会見を見ていて園長の涙でものすごい人間らしい温かみ(大切なものを失った時の感情)を感じたし、素敵で温かい保育園なんだろうなって思った。その一方で、メディアとしてなにかを聴き出したいという人間の欲みたいなものも感じた。その欲は僕にもあるんだろうと思う。

仕事として感情ばかりを優先にしてしまったら、仕事として成り立たないことはたくさんある。嘘も方便。嘘でもいいから配慮は必要かもしれないけど。

どれが正解なんてものはないけど、人間みなやってることは同じだし、いつまでたっても人間なんだなって思ったのです。

被害に遭われた方のご冥福をお祈りするとともに、悲惨な事故が1つでも減るといいなと願うばかりです。

明日は我が身。いろんな立場で明日は我が身。気をつけていきたいですね。

ちばつかさ 心と体の中身から

元プロ野球選手の柔道整復師 心と体のコーディネーター ちばつかさのWEBサイト

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